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| 塩鰤 |
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| 旬暦 〜SYUNGOYOMI〜 |
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| 飛騨の静けさとおもてなし |
| 高山は、「小京都」と呼ばれますが、もともとは今から四百年ほど前、金森宗和の祖父に当たる戦国武将、金森長近公の手によって京都の町になぞらえてつくられた町なのです。以来、天領として統治された江戸時代には、江戸の町人文化と融合した高山祭りに代表される風土や文化を育んできました。又、金森宗和が開いた茶道宗和流からは、京の華やかな趣が山国の素朴さの中にうまく溶け込みあったのです。一見、江戸文化と京文化という相反する二つの流れが天領として保護された高山の町で醸成しながら一つになり、脈々と受け継がれ、宗和流本膳という形の花を咲かせました。料理の様式にとどまらず、もてなす心そのものを表現するといわれる宗和流本膳。その背景には、雪深い山国に暮らす人々が、唯一の楽しみであった宴席を少しでも楽しめるものにしたい、はるばる訪れた客人をできるかぎりの酒宴でもてなしたい、という心があります。どんなに時代が流れても変わることのない飛騨の人々のあたたかな気持ちが、宗和流本膳を大切に守り続ける大きな力となっています。 |
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| 本膳と器たち |
| 宗和流本膳では、漆器は主に輪島塗を使います。「宗和好み」の簡素な姿と、用に足りる強さをあわせもった漆器です。洲さきには、江戸時代後期の本膳道具が残っていますが、これらももちろん輪島塗のものです。また、洲さきでは膳には飛騨春慶塗、器は、渋草焼き・小糸焼きといった飛騨高山ならではの道具を用います。これは、「その土地から生まれた材料をつかって作る料理は、その土地から生まれた器にこそ盛られるのが一番ふさわしい」という気持ちの表れなのです。季節と一緒に高山という風土も楽しんでいただきたい。それが洲さきのおもてなしなのです。 |
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●飛 騨 春 慶 塗
飛騨春慶塗は、約400年前、茶道宗和流の開祖である高山城主金森重近(金森宗和)が城下に神社仏閣を造営中、工事に従事していた大工の棟梁高橋喜左衛門が、たまたま打ち割ったへぎ目(削った面)の美しさに心を打たれ、これを風雅な盆に仕立て、この盆を御用塗師の成田三右衛門が木地を生かし、淡黄に黄金色を放つ透漆(すきうるし)で塗り上げたのが始まりと言われている。色が茶道の名器「飛春慶」の色に似ていたところから「春慶塗」と命名されたと言われている。
木地師には、割目師、へぎ目師、曲物(まげもの)師、挽物(ひきもの)師がいて、それぞれ得意とするものを専門に行う。割目師は板を割り、それを組み合わせて板物(いたもの)や角物とする。へぎ目師は板目を生かして角物を、曲物師は板を曲げて丸い器にし、挽物師はロクロでくりぬいたものを手がける。
素材となるのは、色が美しく緻密で光沢がある桧が主であるが、樹齢250年〜300年の木でなければ美しい漆器は生まれないため、入手が難しくなっている。
当初は茶器が主流でしたが、天領時代になると家具や食器などの高級品が作られるようになった。高山陣屋の広間の障子などにも春慶塗が使われている。 |
●渋 草 焼
渋草焼きは、高山を代表するやきものの一つである。
渋草焼きは、1841年(天保12年)に第二十代高山郡代豊田藤之助がやきものを地元で自給をはかるため商人と共に「しぶくさ」の地で渋草焼きを興したのが始まりである。興すにあたっては、尾張瀬戸よりろくろ師や絵師の戸田柳造、森斎助、小林伊兵衛らを招き、資金は御用商人である中村屋七兵衛に引き請けさせる半官半民であった。
原料は陶石の発見を急いだが、まずは山田寺坂の土を使用、一年後、神岡巣山村に良質の陶石(渋草陶石)が見つかり、加賀九谷より曽我竹山(徳丸の父)周山、富士造を招いて磁器の製造が始まった。 九谷の絵師が赤絵をほどこして「飛騨九谷」「飛騨赤絵」と呼ばれる渋草調の原型が完成し、郡代の庇護を受けて発展していった。
画工のうち、曽我徳丸は特に名工であり、明治5年には日本で東京博覧会に招聘されるほどの腕前だった。
曽我徳丸はそのまま東京に残り、その地位を築いていった。明治6年のウイーン万博への出展品の製作にも携わっていた。
渋草焼は柳造の死後、江戸幕府の滅亡と共に天領時代が終わり、郡代からの援助が絶え、画工の散逸などから次第に衰退します。格調の高いものも作れなくなり、すり鉢や瓶など雑器の製造も余儀なくされた。
しかし、明治11年(1879)に茂住鉱山(現在の神岡鉱山)の経営者であった三輪源次郎、酒蔵の永田吉右衛門、平瀬市兵衛、呉服の阪田長五郎らが「陶甄社」(とうけんしゃ)
の名前の組合組織で再興した。
源次郎は東京で活躍していた画工・曽我徳丸を再び高山へ呼びよせ、職工も整えて、再び良品を作り始めた。いわゆる旦那衆と呼ばれるこれら出資者の莫大な資金と徳丸などの名工により、優れた赤絵や色絵磁器が生れました。
明治12年(1880)に、勝海舟・明治政府元勲後藤象二郎の命名により「芳国社」とし会社設立届けを知事宛に提出。
しかしながら、いくら良い物が出来ても収入となって帰ってこなければ事業は長くは続かずやがて共同出資者の永田ら3名が脱落。また、徳丸も去ると言った具合になった。しかし源次郎の渋草焼に賭ける情熱はすさまじく、そんななかでも数々の博覧会に入選し、質の高い青磁や南京写しも開発された。なお、この頃、職工の松山忽兵衛らが源次郎のもとを去り、新しく「渋草柳造窯」を立ち上げた。一時は80人を越す職工を擁し、隆盛を誇った源次郎の渋草焼芳国社(舎)もついに経営困難となり、明治30年に独立経営に終止符を打った。渋草焼芳国社(舎)は再び幾人かの旦那衆により株式会社として再出発した。明治44年(1910年)にはロンドンにおける日英博覧会で3等賞を得るなど、素晴らしい作品を再び生み出すが、営業的にはまたもや振るわず、ついに解散。その後、残った職工らが経営に携わり、最終的にはろくろ師松山吉之助の息子、吉一が預かることとなり、松山家の経営で現在に至っている。
また現在の工房は、明治初期に建てられたもので、現在高山市指定有形民族文化財に指定され、創業時の場所で、当時の姿を残している。
●小 糸 焼
初期の小糸焼は、飛騨のやきもので文献の存在するものとして一番古いものです。金森氏は初代長近の頃より茶の道に通じていました。
特に長近の孫に当たる重近(宗和)は「茶道宗和流」の開祖として知られています。そのためか、飛騨における窯業は、地場産業の殖産興業というよりは、茶の道に沿う形で開始した印象があります。小糸焼は、金森第三代重頼が京都あるいは瀬戸から陶工を呼び寄せ、小糸坂(現在、飛騨の里の下あたり)の地で焼かせたものと言われています。しかし、窯跡はすでに無く、その詳細は明らかではありません。わずかな陶片と、伝世品と言われる香炉が遺っているのみです。天保年間に興った第二期の小糸焼は、飛騨における磁器製造の最初のチャレンジと言えます。 第二期小糸焼は高山一之町の酒蔵業・細江嘉助と、二之町の鬢付け油商・平田忠右衛門が出資し、尾張から陶工・戸田柳造をまねいて小糸坂(高山市上岡本町)に開窯しました。第二期小糸焼窯跡の発掘調査が行われましたが、窯の焼け具合などから見て、おそらくは、わずか数回程度しか焼かれていない短命の窯でした。、第二期小糸焼はわずか数年、実験程度の段階で廃窯し、戸田柳造は再び尾張に帰りました。
現在の窯は長倉三朗氏により同じ小糸坂の地に復興されたもので、3代にわたり自動ろくろや鋳込型などを使わず、すべて自らの手でつくっています。
飛騨のやきもの〜その歴史〜より
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●輪 島 塗
堅牢かつ優美な伝統高級漆器として名高い輪島塗。輪島塗の起源については諸説がありますが、いまだに定かではありません。現存する最古の輪島塗は、輪島市の重蔵(じゅうぞう)神社に伝わる朱塗りの扉で、1397年(室町時代)ごろに作られたと言います。
奥能登の輪島に漆器づくりが根付いたのは、漆器の原材料となるケヤキ、アテ、漆が豊富にあったからだと言われています。この豊富な原材料を使い、日常生活で使用する椀や膳を作ったことが発祥とされています。
江戸時代の初め、輪島の地にケイソウ土の一種である黄土(おうど)が大量に発見されたことも、輪島塗の発展を考える上で欠かせない出来事です。この黄土を蒸し焼きにし砕いて作った「地の粉」を下地塗りの漆に混ぜることで、漆器の強度が高まり、「一生使えるもの」と言われる輪島塗独特の堅牢さが生まれたのです。また、江戸期には、金沢や会津、名古屋から蒔絵技法を吸収しました。
輪島は港町でもあり、海運の利とあいまって輪島塗は全国に広がり、輪島市は漆器産地として全国に知られるようになりました。同時に、陸路での販売も行い、塗師屋が製品を担いで直接売り歩く販売方法を取りました。
塗師屋は製品を売るだけでなく輪島塗の修理を行うことで信用を積み重ね、販路を拡大しました。顧客は各地の裕福な農家や商家が多かったようです。
明治に入ると、料理屋や旅館などでも使われるようになり、豪華な蒔絵や沈金が加飾される傾向が強くなりました。昭和初期には数多くの漆芸作家を輩出し、輪島塗は次第に美術工芸的な要素を強めていきました。 |
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